REPORT

評価・研究

2019/01/24

【レポート】若者支援施策イノベーションシンポジウム お寺×就業支援の可能性(後編)

大阪市西区南堀江で行われた“お寺×就業支援”の可能性を模索する社会実験イベント「お寺deハレバーレ!」。
「働くことにまつわる悩みを晴らす7日間」として、今年初めて開催しました。

7日間の取り組みの舞台となったのは、浄土真宗本願寺派 萬福寺
イベントの中盤では、「若者支援施策イノベーションシンポジウム」として、公開イベントを開催しました。後編でも引き続き、パネルディスカッションの様子をお届けします。

書き手/水谷 衣里(NPO法人HELLOlife 参与、株式会社 風とつばさ 代表取締役)

(前編はこちらから)

<シンポジウムの会場となった萬福寺の本堂>

(1)民間が出来ること

(宮城さん)
今回のイベントは、「お寺という社会資源を見直そう」という観点から取り組む社会実験なわけですけれども、改めて、寺という場所に可能性があるように思えてきました。続いて日本財団の花岡さんにお伺いします。日本財団は、今回のプロジェクトを助成金で支えていらっしゃいますよね?その意図するところを教えて頂けますか?

<モデレーターを務めるNPO法人ETIC.代表の宮城さん>

(花岡さん)
若者の就労支援の問題は、長らく、本格的な政策課題として認識されていませんでした。行政の目線だと捉えづらい領域だということですね。日本財団はボートレースの収益を民間が行う福祉活動に役立てるために、仲介役、媒介役を果たしています。資金だけでなく、様々なセクターをつないでいます。組織としては大きいですが、民間の立場で、でも公益的なミッションを持っている。そうした存在だからこそ、今までなかった新しい仕組みを形にする役割を担えるのではないかと感じています。

<日本財団 花岡さん>

(宮城さん)
確かに、今回の社会実験は、今までになかった取り組みですよね。HELLOlife代表の塩山さん、改めて今回の取り組みを始めた狙いを教えてください。

(塩山)
HELLOlifeでは、2010年から大阪府の若者就労支援の事業を受託しています。高度経済成長期があり、若者の労働力が必要だった時代から、低成長に入って、長く不況が続く時代へと変化する中で、「働きたいけど働けない」「社会に出る準備がなかなか整わない」若者という問題がクローズアップされるようになりました。一次産業が衰退し、工場が海外に転出していく中で、単純労働者に対する需要が減っていったこと。コミュニティの形が変化し、近所の“おっちゃんおばちゃん”が就職をあっせんしてくれる世界が無くなり、“能力やスキルが多少足りなくても、世話焼きや縁故でなんとなる”就職が減っていること。

こうした社会の変化に加えて、公共サービスが縮小していく中で、「自己責任論」で片づけられがちな若者への支援は後回しにされてきたこと。そうした社会構造の変化や背景の中で、民間の立場で何ができるか、問い続けてきました。今回のイベントは、今ある社会資源を活かして、公的な就業支援とは違った切り口で、若者を支えたり、繋がる機会を作りたい、そう思って企画したものです。

<今回の取組みに関する問題意識を共有するNPO法人HELLOlifeの塩山>

(宮城さん)
今回の取り組みは行政の方にも一定の注目をしていただいていると聞いています。行政ではなかなか出来ないチャレンジを民間が担う。そうした意味もあるのかもしれません。

(塩山)
僕自身、小学校三年生のころから引きこもりでした。公園とか、図書館にもよく時間をつぶしに行っていました。生きることに戸惑っている人にとっては、「支援機関」「相談員」という、ある意味“構えた”場所ではなくて、生活の延長線上にあったり、ふらっといける場所、ハードルが高くない場所に相談できる人がいることって大切だと思うんです。

(宮城さん)
立ち寄れる場の一つとして、寺があるということですね。

(塩山)
「お寺」って、もともとはそういう場所だったんじゃないかと思います。話を聞いてもらったり、人を紹介してもらったりするハブのような役割を果たしていたんじゃないかと思うんです。それに、「行政機関」ではないけれども、ある程度のパブリック性もあると思うんです。役所では手が届きにくい領域を、お寺という存在ならできるのではないかと思いました。そうした中から、公的な就業支援機関には足が向かないけれども、ふらりと気軽に立ち寄れるなら行ってみるか、という若者にアプローチできるんじゃないかとも考えました。

(松本さん)
寺という場所が本来持っていた役割に照らせば、困っている人、生きづらさに直面している人たちと共にあるというのは、あるべき姿なんだろうなと思います。ただ、置かれている環境は寺ごとに異なっていて、まだそこまでに余裕が寺側になかったり、住職や僧侶自身の思いはあっても、周辺環境がそれを許さないということもあると思います。だからこそ、今回のようにモデルケースが増えていくことは嬉しいことですよね。

(2)現代を問い直す場としての寺の価値

(塩山)
僕は両親が共に絵描きをしていたのですが、アーティストってとても自由な立場なんですよね。両親は僕が小さい頃は食うために日雇い労働もしていましたが、そういういわゆる「稼ぐための仕事」と違って、アートは自分自身で正しさとか、価値観、世界観を作るものです。自分たちで新しい正しさとか、価値観を作り出せていければ、もっと暮らしやすい社会になると思います。

(若新さん)
ニートにとっての仕事というものが何かわかると良いですよね。文明って、人が役割分担する中で発展してきたものだと思います。例えば「プロのサッカー選手」という職業は、すごい昔はなかったはずなんですよ。でも今はサッカーボールを蹴って年収5千万とか、1億円の人が存在します。

逆に「雨ごい」という職業は、現代にはありません。でも過去にそれは大事な仕事でした。ニートの若者に職業を聞くと「自宅警備しています」っていうやつがいるんですよ。単にインターネット上をうろうろしながら、自宅に引きこもっているだけなんですけど。

でもそれって、「労働」の意味とか価値について鋭い問いを投げかけていることでもあると思うんです。つまり、“稼ぐこと”だけが“働くこと”なのか、という問いです。一見なんの役にもたっていないことでも、それを無駄だと切り捨てるのは、誰かが作った勝手な主観によるところが大きい。そういう問いを、お寺で出来るといいんじゃないかと思います。

<株式会社NEWYOUTH代表取締役の若新さん>

(宮城さん)
ある意味、「労働の価値観を問い直す場」として、寺が果たせる役割があるかもしれませんね。

(若新さん)
正しいことの基準が変化している世の中だから、それをちゃんと考える必要はあると思います。ニートの若者は、20世紀的な労働の価値にマッチしていないんですよね。彼らは「産業社会に資する労働しか認めない」という価値観を問うているのかもしれません。もちろん、ただ人生から逃げているだけかもしれませんが。

(3)「寺」という存在が社会に開かれていく意味

(花岡さん)
お寺ってデリバリーできないんですかね。変な表現かもしれませんが、Uber eatsならぬ、“Uberボーズ”のような取り組みってあり得ないんでしょうか。何が言いたいかというと、救いや他者との会話を求めている人と直接触れ合うことが必要なんじゃないかということです。檀家制度を超えて、必要な人に救いを届ける、言ってみれば「デリバリー型坊主」のような取り組みが出来たら、今の“寺”の持つ機能に一石を投げられるのではないかと思いまして。

(松本さん)
面白いですね。今日話していて、“お寺に住んでいて世間に触れないお坊さんは、もしかするとニートなのかもしれない”ということに気づきました(笑)。お坊さんがそれでいいということではありませんが、一方で、世俗から切り離されて、生きること、存在することを問い続けることや、不安定な存在でも許される、徹底的に哲学的な問いが出来る場所としてのお寺の存在意義もあると思います。

(若新さん)
ニートの若者って、良くも悪くも哲学に入り込むところがあるんですよね。流行りのアニメって、そういうものばかりだと思います。人間の存在自体を問うというか、“自分が生きていていいのか?世の中に存在していていいのか?”をひたすら問うようなストーリーがとても多いんですよ。

毎日仕事や家庭で忙しいと、そういう哲学的なことを考えなくても済むんですが、ニートの怖いところは時間があるところにあって、下手するとそういう出口が無い問いにはまってしまいます。そういう問いがあること自体は悪くはないですが、一人で向き合っているときついですから、そういう時に住職だったりお坊さんだったり、宗教者との対話があると、救いになるかもしれないですね。

(宮城さん)
いよいよ、寺こそが若者支援の本丸な気がしてきました。(会場、笑い)

(4)これからの若者支援

(花岡さん)
私自身は子育て中の世代でして、子供を見ていると、小さい子って、「何が正しいか」「どうあるべきか」という刷り込みから自由なんだなと感じます。枠をはめているのは大人の方で、こうあるべき、という枠があるから生きるのが苦しくなるんだと思います。

ポイントは自己肯定感だと思いますし、自己肯定感を得られる場を一つずつ作っていくという挑戦が必要なんだと思います。HELLOlifeさんが取り組んでいることは、まさにそれで、一つひとつのアクションを通じて、当事者が自己肯定感を得られる仕掛けを作っている。そういう場がこの先の日本には必要なのではないかなと思います。

(若新さん)
僕のところには「プラモデルの制作代行で、月収2万円」という奴がいます。納期のない制作代行で、気が向いたときに取り組んで、凝りまくって、それで2万円。「月2万円じゃ暮らせない」という周りの声もあるんですが、本人はすごく一生懸命で、楽しんで取り組んでいる。本人は納得しているわけです。社会が求める基準には達していないが、本人の納得できることを積み上げていくというのも大切だと思います。

(松本さん)
「こうあるべき」という姿が画一的になると、そこに当てはまらない人は苦しいわけですよね。しかし本来仏教は、良いとか悪いという価値判断や、こうあるべきという決めつけから自由な場所だと思うんです。

(若新さん)
僕は今の日本で最大の信仰は「努力教」だと思います。努力すれば成功する、そこに価値がある、という考え方です。戦後の日本には、金を稼ぎ経済的に豊かになって、いい車を買ったら上がり、という人生のすごろくがありました。それが戦後の日本の強さだったと思います。でもそういうわかりやすい人生の成功像は実はもう描きづらくなっています。

幸福の基準を自分で作らなきゃいけない現代だからこそ、寺という場所の新しい価値が生まれてくるんじゃないでしょうか。

(塩山)
常識や今までの“成功”とされてきたことそのものを疑わなければいけない世の中だからこそ、迷う若者が増えているんだと思います。そういう時に、学校で教わるでもない、親の背中を見て理解するでもない、生き方や、場合によっては死生観なんかも含めてお寺で学ぶということがあってもいいのではないでしょうか。

(宮城さん)
皆さんのお話を伺っていて、お寺という場所でこの話ができていることに、大きな意義を感じます。100年、1000年という単位で存在している寺という存在の中で、私たちが直面している社会課題は、単なる変化のプロセスの一部なのかもしれません。

より長い時間軸で、どう生きるか、今ここで悩み苦しむ人を支えるか、問い直されているように思いました。みなさん今日はありがとうございました。

<シンポジウム会場となった萬福寺本堂前にて>

前編はこちらから